古市義人の備忘録


親会社の「嵯峨映画の歴史」と少し重複します。

嵯峨映画は映画界の不況、大映撮影所の閉鎖で危機感を感じて新規ビジネスへの進出を計りました。


  1. 太秦(嵯峨映画の所在地)でトラック専門のレンタカーとしてスタートする。

    レンタカーを始めたのは私が大学生の頃、まだ車は貴重品で大衆車のサニーやカローラが発売されて間もない時期でした。当社はトラック専門のレンタカーとしてスタートします。京都では高速レンタカー、サンコーレンタカー、京都レンタカー(後のニッポンレンタカー)がすでに営業していました。

  2. 丸太町通りに土地を賃借する。

    卒業後勤務したサンコール(旧三興線材工業)の品質管理課において、企業の理念は、企業の大小・製造サービスの業種に関係がないことを学びました。

    大阪万博の仕事を嵯峨映画が受注したことを機会に家業に戻り、大阪万博の仕事が終わった後は私はレンタカーの仕事を中心に切り替えました。 丸太町通りの常盤に土地を賃借しプレハブの事務所を建て営業を開始しました。土地の制約上、水道が引けずに洗車用水は毎日ドラム缶で運びました。

    労働組合との争議や事故の示談などのつらい仕事が相次ぎ、道を誤ったのかとも思いましたが、「このような仕事は誰でも嫌なのだから、これをうまくこなせば皆に喜ばれるのだ。」と言うことに気付かされました。それ以来このような仕事こそ宝物だと思うようにしました。事故の示談、反社会的勢力との交渉は先手必勝とばかり積極的に関わりました。

    いろいろな方のお力添えで、京都の中堅企業とも取引を始められ、企業のニーズからリースカーを重用視する様になりました。レンタカー事業も順調に推移してきましたが、決算では利益を出しながらも手元の資金不足で納税にも苦労をしました。

    3月の引っ越しシーズンでは軽トラックを1日3回貸し出そうと努力しました。予約を受けるのに中途半端な時間の出発は調節していただき、こちらで時間を指定させていただきました。トラックの幌の取り付け取り外しも忙しい仕事でした。配車や引取りも効率を考えて行い、パートさんと二人またはアルバイトさんを交えてのレンタカーの貸出でしたから人件費も低く抑えることができていました。

  3. 丸太町通り向かい側の土地約200坪も賃借する。

    これが40有余年営業をしました丸太町営業所で、ようやく水道も完備しました。

    不良ユーザーによる車の乗り逃げや事故にまつわるトラブルは相変わらずに頻発しましたが体を張った解決で法人のお客様には大変感謝され、取引先の保険、従業員の団体保険も任されることが多くなり「損害保険代理店」も設立し別会社としました。反社会的勢力の事務所に監禁されたり凶器で脅かされ暴力を振るわれたこともありました。相談に行った警察では反社会的勢力への対処の仕方を注意警告されたりもしました。

  4. 御池営業所開設

    都心での集客増を求め、烏丸御池通東に50坪ほどの御池営業所を開設しましたが、賃料が高く当社の営業力では近隣のビジネスユーザを確保することは困難でした。数年営業しましたが地主さんがビルを建てられることとなり閉鎖することになりました。

    本社の経営は順調で年中資金不足と人手不足ではありましたが高校に求人依頼をだし正社員として新卒が入ってくることになり、3日間近くのペンションを借りて新人研修合宿を行い、ジョギングで朝晩会社へ通いました。

  5. 伏見営業所開設

    同業他社が業績を伸ばすなか、当社も負けじと伏見に土地を借りて営業所を開設します。
    立地条件も良かったので売上は順調でしたが、狭く効率が上がりませんでした。

  6. 上鳥羽営業所開設

    新堀川通り十条下ルに広い場所を賃借し上鳥羽営業所を開設しました。 伏見営業所の欠点を補えるであろうと考えましたが、場所が不便なためこの営業所は閉鎖しました。

  7. 東京営業所開設

    お客様の東京進出を機会に当社も東京に営業所を出すことになりました。
    借地を探すのが難しく進出を決意してから2年ほどかかりましたが1980年(昭和56年)3月にオープンします。その年の4月のニュースで西葛西駅周辺が日本一の土地価格の上昇した場所として紹介されました。これが現在の西葛西にある東京営業所です。その後、地主さんが相続税のために土地を売られることとなり当社としてもやむを得ず営業継続のために50坪だけ売って頂きましたがこのときがバブル経済の頂点でした。

  8. ガソリンスタンド開設

    お客様からの要望で千本通二条にあったガソリンスタンドの経営を引き継ぎます。
    2年間営業しましたが利益を出すことは至難の業だと考え撤退いたしました。その後、他社のレンタカー営業所となりました。

  9. 国立京都国際会館営業所開設

    国際会館の大駐車場内でレンタサイクルを主目的としてレンタカーの営業所を開設しました。

    市営地下鉄が開通し国際会館様よりの要請で営業所は撤退しました。

    国際会館での営業は、その後の国際会館の仕事を起点とした電話工事・ネットワーク構築などIT技術関連のティプス株式会社の設立(2004年)へとつながりました。

  10. 京都駅前営業所開設

    京都駅前に営業所を構えることも長年の夢でしたが烏丸通り九条上ルで土地を賃借することが可能になり京都駅前営業所を開設しましたが駅から直接にお客様が流れてくることはあまり無く旅行代理店など他の業者と提携しないと難しいことが判りました。その後、ビルの建設を計画された地主さんからの要望で営業所は閉鎖しました。

  11. 大阪住之江営業所開設

    2003年7月、今までの経験を生かせればと、大阪に営業所を開設しました。

    系列会社(関西ロケーションサービス)のマイクロバス青ナンバーの取得も視野に入れて土地を賃借しました。

  12. 長津田営業所開設

    2012年1月、東京方面、映画関係、トラック関係のユーザーを開拓すべく長津田営業所をオープンしました。

  13. 住之江営業所移設

    2013年3月、狭くなった住之江営業所を向かい側の広い場所に移設しました。

  14. 京都本社移転、太秦営業所開設

    2015年4月 京都本社・丸太町営業所を太秦開日町へ移転しました。

  1. 事故トラブルの思い出-1

    3-40年前テキヤの〇〇さんがトラックのレンタカーを良く使ってくれました。彼は親分肌で夜店の出店でヤクザと対立してやりあう話をよくしていました。彼は私に親近感を持ってくれましたが何分普通の人ではありません。だが正義感が強い人なので安心感はありました。あるとき別の客で車を返さない人があり隠れ家の比叡山の山中まで車を返せと交渉に行き彼らのグループに殴られたことがあります。彼らはその車で松ヶ崎のおばあちゃんを温泉旅行に連れて行きどこかで殺し、家を乗っ取る計画でした。事件はばれて新聞に大きく載りました。私を殴ったやつらは刑務所行きですがそこで〇〇さんと同室になり「サガレンは俺の友達や!」と彼らを脅かしてやったとのことです。その後20年ほどたって私がガソリンスタンドを経営したとき私の店に右翼の街宣車が5,6台給油に来ましたがその右翼団体の団体長が〇〇さんです。その時に彼はビジネスホテルのオーナーにもなっていました。周りの人が怖がるので給油は1台毎に来てほしいとお願いしましたが懐かしかったです。今彼がどうしているのかは知りません。

  2. 事故トラブルの思い出-2

    3-40年前得意先のお客様の息子さんが友人の車を借りて事故をしたとの相談がありました。交差点停止中、車のブレーキから足が離れ前のタクシーにチョンと当たったとのことです。乗客は風俗嬢で即入院。タクシー会社には一切弁償は必要ないが乗客に関してもタクシー会社は関わらないとなっています。友人の車は任意保険が未加入でした。まずタクシー会社には自賠責保険の使用を許してもらい風俗嬢の入院した病院との交渉です。病院事務局長、担当医に対してカルテの開示をお願いし支払いには自賠責保険しかないことを理解してもらう。風俗嬢には治療に健康保険使用を納得させます。そして事故示談には男が二人、元夫と現夫の二人。住民票を調べましたがその通りです。つまり彼らはヒモと言われる人間です。自分のポーチを絞って見せてこの中にピストルが入っていると自慢します。私は病院の治療に難癖をつけ病院を退院させ彼らと示談をします。朝10時にホテルのロビー集合、そこで延々と話し合い夜12時近くになりました。お互いが疲れてくたくたですので賭けに出ます。彼らの言い分を呑む、ただし所得の証明が必要と。 私が席をはずしたとき女性は私についてきて「お金は私に払ってほしい。彼らは私のお金を取り上げるだけだ」と訴えました。示談が成立してしばらくすると男から電話が入りいつ金を送るのだと聞いてくる。私は示談書に書いてある所得の証明は取れたのかと聞くと「だましたな!俺は金は要らん、お前を殺す!」と息巻く。あとの処理は弁護士に任せました。

  3. 事故トラブルの思い出-3

    3-40年前ヤクザ風の客が、レンタカーを使い対応に問題があると文句を言った。その後電話で丁寧な話し方で事務所に来てくれと言う。普通の人ではないので念のため録音テープを隠し持って行ったが指定されたところは完璧なヤクザ事務所だ。その時は組長一人で配下の者に盛んに電話で指令を飛ばしている。 これは逆らうことができないし金を払えという要求にも断らずにあいまいな返事を繰り返した。そして事務所から解放されてすぐにその足で警察へ相談に行った。刑事は喜んで「これで彼らを逮捕できる。彼らは山口組系の新設暴力団で細かい恐喝を20件程しているが誰も訴えてくれないのだ」と言う。こちらは録音テープもある。その後ヤクザからいつ金を払うのだと電話があったが「金は払う気は無い!」と怒鳴ると「お、この前と態度が違うやないか!」と怒鳴り返してくる。私の家族は「金を払った方が良い。命のほうが大切だ」と言うがこれで金を払うのならばレンタカービジネスを継続する自信が無くなる。彼は逮捕されたが取調室で面通しがある。この男で間違いないか?やはり怖かったが私も相手を睨み返し「そうです、この男です」と言った。 彼は刑務所に入った。刑務所から改心していると時々手紙が来る。5年ほどたって彼が刑務所をでて私に挨拶に来るという。私は驚いてすぐに警察に相談した。刑事の言うのに「大丈夫や、会ってやってくれ。彼は態度良好だから刑務所を出られるのや。もし君に仕返しをするようならば彼は一生刑務所から出られない」と。怖かったが彼の私への挨拶は無事に終了した。

50年の間に、大きな経営危機が2度ありました。

家業を継いだころ、レンタカー協会の活動で事業協同組合が設立され、当社も組合に加入しました。車両の共同購入の話が持ち上がり、組合より他社の約束手形と当社の約束手形の交換を依頼されました。融通手形の仕組みもよくわからずに引き受けたところ、この約束手形が不渡りになりかけました。ところが運良く同業他社の役員の方に救済していただきました。この方から頂いたご恩は一生忘れることはできません。これを機会に事業協同組合から脱退しました。

神戸大震災の際には、幸いにも当社は大きな被害を免れましたが、当時、東京営業所の土地をバブルの高値で購入した金利負担が重く、危機とは言えるほどではないものの、一つ間違えれば大変なことになっていたと思います。

本当の危機とは立ち上がれない自分の心だと思います。

私自身としては営業力もなく、人望も交渉力もありません。
こういうことが苦手なのにここまでやってこられたのは、周りのニーズをうまく捉えることが出来たからだと思います。

世の中のニーズは変化していきます。その流れの中で変化していける自分が大切だと思います。能力も必要でしょうがニーズを感じて変化していける、自分に対する厳しさが一番大切だと思います。


古市義人

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